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礼拝説教要旨(2022.08.28)

  • t-bible-ch
  • 2022年9月14日
  • 読了時間: 10分

更新日:2022年9月16日


手を上げているときは
(出エジプト記17:8-16) 

<今日の要点>

霊的な戦いは、キリストの勝利を確信して祈り、戦うことによって、勝利を得る。


<あらすじ>

 荒野での信仰の訓練が続きます。

パン、水が枯渇する中で、主がその必要を満たして下さった経験をしたイスラエルでしたが、今度は彼らを襲う敵が目の前に現れました。

前回と同じレフィディムでのことです。


材料は変われど、訓練の目的は一つ。

救いは主から来るということ。

主への信頼ということです。

どんな困難、試練にあっても、主がともにおられるので、主が守って下さる。

そのことを経験して、主への信頼を養われることです。


8節「さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。」


エジプトの追撃を除けば、初めての敵の出現です。

敵はエジプトだけではありませんでした。

イスラエルは、戦いたくなかったことは明らかです。


ついこの間まで奴隷だった彼らは、戦闘の訓練など受けておらず、ろくな武器も持っていなかったでしょう。

彼らの目指す所はカナンの地。

そこに行きたいだけなのですから、できれば戦いなどせず、とにかく無事に着くことを願っていたでしょう。


しかし、神に背いた世には悪が存在するのも事実。

彼らは望まないのに、かまわず敵が襲ってきます。

「アマレク」は、カナンの南部ネゲブからシナイ半島にかけての地域を縄張りとする好戦的な遊牧民。

今、自分たちの縄張りに大群衆が入ってきたので脅威を感じたのか。


あるいは、イスラエルが神から与えられた水の出る岩を奪うことが目的だったとする人もいます。

それもありそうなことです。


 この事態にモーセはどう対処したか。

今度は祈るだけではなく、祈りとともに彼ら自身が戦う必要があったようです。


9節「モーセはヨシュアに言った。

『私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。

あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。』」


ヨシュアは、後にモーセの後継者になる人物。

「主は救い」という意味で、新約のギリシャ語ではイエスースとなります。

イエス様のことです。


この時、すでに80歳のモーセは、実際に戦うのは若いヨシュアに任せて、自分は神の杖をもって丘の頂に立つと言います。

と言っても、高見の見物を決め込むわけではありません。

主に祈ることに専念するのです。



10-11節「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。

モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。

モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。」


今回は、祈るだけで、彼らはただ主がなして下さる救いを見てればよい、ということではありませんでした。

もちろん、その気になれば、主はご自分だけで追撃するエジプト軍を滅ぼしたように、アマレクを倒すことも難なくおできになります。


しかしこれからは、そういう形ではなく、彼ら自身が主により頼みながら、身体を張って、戦うという形を取られるのです。

パンがない、水がないと文句を言うだけの者でなく、敵から家族同胞を守るために、雄々しく戦う者へと、変えられなければならないのです。


 しかしだからと言って、勝敗は人の力にかかっているのではありません。

祈りに、神に、かかっている。

そのことをこの箇所は教えています。

モーセの兄アロンは83歳。


フルは初登場ですが、他の個所でもアロンとセットで登場します(24:14)。

歴史家ヨセフォスは、モーセの姉ミリヤムの夫としますが、確かなことはわかりません。

ただおそらく高齢であっただろうと言われます。

ここで不思議なことが起こります。


モーセはただ手を上げているだけなのに、それによってイスラエルが優勢になり、手を降ろすとアマレクが優勢になるのです。

たまたまそうなっただけなのでしょうか。

そうではありません。

実は「手を上げる」は祈ることを表します

(詩篇63:4, 旧約p. 965、第一テモテ2:8, 新約p.407)。


ですから、これは偶然ではなく、戦いの勝敗を決定するのは、モーセの祈りだったと教えているのです。

この教訓をしっかりと心に刻む必要があります。

祈りと実際に戦うことと、両方そろってこの危機に対するのが、御心だったのです。


私たちはこの聖書的世界観に立たなければいけません。

そこに希望があります。

わずかな手勢の者で東方の5人の王たちの連合軍と戦い、甥のロトを救い出したアブラハム(創世記14章)。


イスラエルをなぶり者にした巨人ゴリアテを倒した少年ダビデ(第一サムエル17章、旧約p. 494)。

いづれも、戦力では劣っていたけれども、主に信頼して捨て身で戦い、そして主から勝利を与えられました。

この時のイスラエルもそうです。


ついこの間までエジプトで奴隷だったイスラエルは、戦い方もわからず、訓練も受けておらず、ろくな武器もありません。

戦い慣れしたアマレクvsずぶの素人のイスラエル。

結果は火を見るより明らかです。


それでもあえて、彼らが戦うことを命じたのは、戦いの勝敗は、まったく主の御手の中にあることを、頭でなく体で覚えさせるためだったのではないでしょうか。

温室では信仰は育たないと、よく言われるとおりです。


ですから、この祈りの手を上げ続けることこそが、イスラエル全体を勝利に導くと、モーセたち3人もわかっていたようです。

祈りの手を下ろしたら負け、と。


12節「しかし、モーセの手が重くなった。

彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。

アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。

それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。」


アロンとフルも、頑張って、日の沈むまでの長い時間、左右からモーセの手を支えました。

祈りをいかに大切なもの、必要不可欠なものとみなしていたか、うかがわれます。

その信仰は、形となって現れました。


13節「ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。」


丁々発止の戦いに当たっていたヨシュアは、ついに敵が逃げ去るのを見て、イスラエルを守りきることができたと安堵するとともに、主に感謝をささげたことでしょう。


そして、戦いが終わって、主はモーセに語られました。


14節「…『このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。

わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。』」


聖書で、初めて記録せよという命令です。

エジプトでは奴隷だったイスラエル人は、文字の読み書きができる人は少なかったかもしれませんが、モーセがエジプトで受けた教育が役に立ったのでしょうか。


主は、アマレクの存在を地上から消し去ってしまわれると宣言し、これをモーセの後を継いで多くの戦を戦わなければならないヨシュアに読んで聞かせよと言われました。

これは大きな励ましになったでしょう。


戦い慣れしていないイスラエルにとって、アマレクのような好戦的な民族に目をつけられることは、脅威です。

今回は勝ちましたが、次は体勢を立て直して、復讐に来るのでは、などとも考えられます。

ここは敵のホームグラウンドでもあります。


しかしその恐れを取り払うために、主は、主ご自身がアマレクを滅ぼしてしまわれると宣言して下さった。

実際に戦うのはヨシュア達ですが、この戦いは主の戦いなのだ。

そのことを心に刻むべく、モーセは祭壇を築き、主を礼拝しました。


15-16節「モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシと呼び、『それは「主の御座の上の手」のことで、【主】は代々にわたってアマレクと戦われる』と言った。」


アドナイ・ニシ」「主はわが旗」の意。

主の旗印のもとに、自分たちはこの荒野を行進し、戦いを挑まれれば戦う。

自分たちは主のものという旗印を鮮明にしたのでしょう。


そして次の16節は、訳も解釈もいくつかありますが、今日は、

「主の御座に向かって手を上げよ。

主は代々にわたってアマレクと戦われる。」


という意味に取りたいと思います。

主は、アマレク人の記憶を完全に消し去ると言われました。聖書の中で、ここまで言われるのは、アマレク人だけだと思います。そのため、アマレク人は肉の性質を表すと言われます。肉は御霊に対立し、まことのいのちを奪うものなので、肉の行いは十字架につけなければいけないと言われています。


ローマ8:13、新約p. 301

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。


肉と御霊については、ガラテヤ書5:16-26(新約p. 370-371)を参照。


 最後に、祭壇は主に礼拝を捧げる場所ですが、それはいけにえがささげられる場所でした。聖なる神の御前に、罪ある人間が受け入れられるためには、人間の罪を背負わせた犠牲がほふられ、血を流されなければならないのです。ですから祭壇は、キリストの十字架を表します。


この十字架が、アドナイ・ニシ、わが旗です。私たちは、このキリストの十字架の旗のもとに集められた者たちです。讃美歌379番の歌詞が浮かびます。


見よや 十字架の旗高し 君なるイエスは 先立てり…


また、この旗は神の愛をも表します。雅歌2:4、旧約p. 1117。

…私の上に翻るあの方の旗印は愛でした。



私たちは、この、神のこの上ない愛の現れである、キリストの十字架の旗のもとに集められた者たちです。この十字架の旗のもと、互いに祈りあい、助け合い、赦しあいながら、荒野を行進し、祈りの手を上げて、襲い来る敵と戦い、最後は約束の御国に入れて頂くのです。


「父の大前に すべての求めを」新聖歌190番

今日の個所は、祈りこそが、霊的戦いの勝利を決定づけるものだと教えています。このことを心に刻みたいと思います。私たちは、祈っても、祈らなくても、事態は変わらないんじゃないか、と思ってしまいがちではないでしょうか。


またこの箇所は、神がイスラエルを守ることは、決まっていることだからと言って、祈らなくていいのではなく、やはり祈りが必要であることも教えています。古代教父アウグスティヌスは、自分をクリスチャンにしたのは、母の祈りであると言いました。


彼が若い頃、神に背を向け、放蕩し、異教に走り、神から遠く離れたかのように見えたときも、あきらめずに、十数年も祈り続けた末に、母モニカは彼を取り戻したのでした。もちろん、主は、私たちが祈らなくても、救うと決めた人を救われますが、


しかし主の御心は、あえて私たちの祈りに答えて人を救う、という形をとることもあるのでしょう。主は私たちの捧げる心からの祈りを喜ばれるのだと思います。聖書は祈りに満ちており、詩篇は全篇これ祈りです。神は、祈れと促しておられます。


しかし祈ったら、何でもスンナリと行くというわけではありません。

紆余曲折があり、忍耐、聖なるしぶとさ?が試されます。


ちいろば先生の榎本保郎牧師のところに、T君という高校生がいました。

彼はよく勉強のできる子で、彼の両親は、自分たちは貧しくて勉強できなかったから、息子には思う存分、勉強させたいと期待を寄せていました。


あるとき、T君は迷った挙句、高校生の献身キャンプに参加しました。

彼は親の気持ちもわかるので、散々迷いに迷いましたが、最後は献身の決心をしました。

一緒に参加していた榎本師は、ご両親の気持ちを知っているので、「どうか彼を助けて下さい」と一心に祈ったそうです。


すると「石はすでに取りのけられた」という聖書の言葉が浮かびました(マルコ16:4)。

そして真っ青な顔をしている彼にこの御言葉を伝えて、一緒に祈りました。

キャンプから教会に戻っても、T君は家に帰りづらそうにしているので、もう一度、一緒に祈り、「石はすでに取りのけられた」の御言葉をもって家に帰るように、と送り出しました。


翌日、心配になって理髪店をやっている、彼の家の前まで行ってみると、「臨時休業」の札がかかっています。

三日目にT君がげっそりとやせた顔で教会に来て、ぽつりと「石は取りのけられてなかった」と言って、あとはうつむいてしまいました。


しばらくしてようやく口を開き、父親は誰がお前をそそのかしたのか、と言って、とても怒っている、母親はあの日から食事もしないでただ泣き続けていると言いました。


榎本師は胸が詰まり「どうする?弱ったなあ」とつぶやくと、「先生、石はすでに取りのけられたという、あの御言葉はどうなっているんですか。」

と問い詰められました。


この言葉に榎本師はハッと自分の不信仰に気付き、「そうだった。あの御言葉は必ず君にも成就するよ。」

と言い直したそうです。


それから半月ほどして、ご両親が教会に見えました。

てっきり怒鳴り込みに来られたかと思ったら、「先生、よろしくお願いします。」

と手をついて言われました。


その後、T君は神学校に行き、牧師となったそうです。

祈りによって勝利を得るまでには、「あの御言葉はどうなっているんですか」と言いたくなるときもあるかもしれません。


信仰というのは、試されるのです。

そこでなお、信仰に立つことの大切さを心に留めたいと思います。


 最後に、初代教会で祈りに励んでいた兄弟の姿を模範に。


コロサイ4:12、新約p. 394。


あなたがたの仲間のひとり、キリスト・イエスのしもべエパフラスが、あなたがたによろしくと言っています。

彼はいつも、あなたがたが完全な人となり、また神のすべてのみこころを十分に確信して立つことができるよう、あなたがたのために祈りに励んでいます。




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